「何でも平等」の罪

 昨年、中学校の組体操でピラミッドがくずれ重傷者が出たことが報道されていました。最近のピラミッドは高層化の一途で、この中学のピラミッドも10段とのこと…その高さに驚いたことは記憶にありますが、高層化には「達成感を高めるため」「協調性を育むため」というもっともな理由の他、「生徒をみんな平等に扱うため」という配慮があるという事は知りませんでした。

 花形演目の組体操には、平等に全員を参加させたい ⇒ 低層のピラミッドだと数が多くなり、限られた広さの運動場で収まり切らない ⇒ 中層のピラミッドだと、ある程度収まりがつくが、やはり一部の人を盛り立て役の「扇」などに回さざるを得なく、平等でない ⇒  皆が平等にピラミッドを構成するには、高層化しか手段が無い…こんな理屈です。

 この他、「スタートの合図で各人好きな位置から出発し、飽きたらゴールのかけっこ」「ゴール前で全員が手をつないでゴールインで、みんな一位の徒競走」「全員が主役の桃太郎を演じる学芸会」など、『平等化』は進化しているのだそうです。

競争が無く、みんなが平等なことは果たして子どもたちにとって、あるいは日本の将来にとって望ましいことなのでしょうか?競争をなくすということは、国民からハングリー精神を奪い、国力を低下させることにつながるという意見があります。かつて世界を席巻したにも関わらず、日本製品は存在感を失ってしまいましたし、新興国の子どもたちと比較すると日本の子どもたちの学力は見劣りしています。一部競技を除いたスポーツ分野も不振であることがそれを象徴しているということです。

 高度経済成長期に義務教育を受けた私の世代はこれとは対照的に競争ばかりさせられていましたが、それによって自分の位置を知ることが出来、身の丈を知ることにも努力の原動力にもなったように思いますが、いかがでしょう?

(参考:日経ビジネス2015.1.5号)